受精の小宇宙

 〈受精の小宇宙〉

 

 生命の生成過程が生命史をその形において繰り返すように、受精は、生命の原点であると同時に、

宇宙の普遍的かる不変的原点をその形と性質とによって表している。

 

 この制の原点への理解は、そのまま宇宙とは何かの深い洞察へと通ずるのである。しかし、現代社会

では、性、および性の原点への認識が私たち自身の概念の投影により大きくゆがんだものとなっている。

 

 一般に、精子が無数にある理由は自然淘汰のためだと言われてきた。精子は、子宮を通って卵子に

出会う長い道程の中で、弱いものはほろび、一番強いものだけが卵子に到達できるのだと私たちは

教わってきた。

 

 しかし、もちろんこれは真実ではない。

 決して受精は、一番に到達した精子が行うのではないし、無意味に多数の精子が存在するのでもない。

精子が無数に必要な本当の理由は何だろうか。最新の科学的情報をもとにその実態を再現してみよう。

 

 

 「まず最初に、子宮に入った無数の誓子は、リズミカルな子宮の収縮運動によって輸卵管の近くまで

集団で運ばれる。精子は自力で泳ぐというよりも、母体の共同により運ばれるのであり、卵子への到達

はそれほど困難なことではない。

 

 しかし、卵子に到達してからが大変である。卵子には卵子の成熟を手助けしていた何百という濾胞細胞

がついており、これをとりはずさなければ受精はできない。これには、一つの精子では無理であり、卵子

に到達した無数の精子たちで、これを共同で行うのである。

 

 そしてやっと裸状態になった卵子ににはさらに卵膜という強い城壁があり、やはりこれも一つや二つの

精子で破ることはできない。何百という精子が一斉に卵部にある、卵膜をやわらかくする物質で働きかけて、卵膜を突破できるほどもろくするという共同作業に取りかかる。そしてやわらかくなった卵膜の

箇所にいた精子が、はじめて卵子に交わるのである」

 

 

 受精は、このように無数の精子の実に調和のある共同活動の結果なのであり、精子は早い物競争や

生き残り合戦をしているわけではない。そこに見られる精子の活動は、競争や淘汰ではなく「和」で

ある。

 

 無数の精子は、すべて、一つの目的のために各々の役割を奉仕的に演じるのだ。生命の原点は、

この、精子たちや卵子に見られる、一体性・活動性・奉仕性にある。科学が進めばこれよりももっと

深い、複数の精子の役割や受精の意義がわかってくることだろう。

 

 このような自然界のありのままの姿を無視し、すべては自然淘汰としてかたづけてしまうダーウィン式

の発想は、我々の概念に大きな歪みをもたらす。企業と企業が対抗し合う現代社会は、まさにこの

ダーウィン式の競争と自己主張に基づく架空の精子の概念そのものである。

 

 人間や人間社会のあり方は、人々の観念に起因するものである。

ゆえに、生命の原点である受精への認識は、理想的社会を築く上で、最も重要であり、我々は、もう一度この生命の原点の持つ意義を見直す必要があるのではないだろうか。

 

 「最後のムー大陸『日本』」 神衣志奉 著 中央アート出版 2011年 より抜粋

 

 

 

 神社の鳥居は女陰を、参道や産道を、お宮は子宮を意味していると言われています。神輿はDNAを、

神輿の担ぎ手は精子を意味し、鳥居から入り産道を上ってお宮入する神事が全国の神社で毎年行われ

ていますが、それは、どうも人間の発生のメカニズムをシンボライズしているようです。

 

 太陽系というサークルの中に、定期的に勾玉(精子)のような姿で太陽系に侵入する彗星は、地球に生命をもたらした存在だとされています。卵子に精子が引き寄せられる姿と、太陽系に彗星が侵入する様子は相似象であり、ミクロからマクロまで、陰陽調和の法則によって営まれていることがわかります。

 

 「腸管造血説」を唱えた千島喜久男博士は「自然界は共生で成り立っている」と主張しています。

ダーウィンの進化論が説く「自然淘汰説」「生存競争説」「弱肉強食説」に対して、生物の進化は、種の違う生物との助け合い、相互扶助でなりたっているのではないかと言われているのです。

 

 千島博士は、自然界のもっとも大きな力は共生であり、それは、二種類以上の生物がおたがいに

相手のほうに対して利益を与えつつ、そして共同で生活する現象だとし、それは「親和力」または「愛」という力によるものだと言っています。

 

 私も、千島先生が言っている愛による相互扶助によって生命が進化したのではないか、と思って

います。なぜなら統合側(一体となる方向性、一元性、母性性、親和力、協調性、許容性、寛容性、受容性と言い換えてもよい)に意識が向いている時に出てくるエネルギーが愛であり、分離側(バラバラになっていく方向性、二元性、男性性、比較、競争、独占、支配、執着、管理、要求、責任転嫁などと言ってもよい)の時に陥るエネルギー低下状態がエゴだからです。

 

 愛はパワーであり、生きる力を生み、生命歓喜状態をもたらします。それに対してエゴは生命エネルギーを失い、自滅する状況を招きます。

 過酷な環境に適応する能力は愛をもってこそ培われる、そんな事を『最後のムー大陸日本』という本の「受精の小宇宙」の記事から学ばせてもらいました。